以前精神分析の前提として無意識の存在がある、ということを書きました。
今回はその無意識を含む人の意識領域について、精神分析ではどのように考えられているのかを紹介していきます。
意識と無意識(consciousness and unconsciousness)
精神分析のテキストではしばしば意識領域を氷山に例えて説明しています。
氷山の見えている部分は全体の一部分であり、大部分が水面下にあります。この見えている部分が私たちが自覚できる「意識」であり、水面下の大部分が「無意識」に例えられます。
心の大部分は普段隠れていて自覚できないということです。
ちなみにこの隠れている部分には何があるのかというと、本能衝動や観念、記憶と言ったものが抑圧されていると言われています。
心理学は心を科学的な視点から見ていこうという学問なので、無意識って本当のにあるの?というスタンスですが、精神分析は最初からこの無意識の存在をあるものとして話を進めている点が特徴です。
意識
私たちが普段自覚できる意識、日常的な言葉で使われる意識と同義。
無意識
私たちが自覚できない心の領域。欲望や記憶などが抑圧されている。
前意識(preconsciousness)
無意識と意識の中間にあり、努力や他者からの指摘によって意識することのできる部分を「前意識」と言いいます。
絶対に普段意識できない部分と、頑張れば意識できる部分が区別されているような感じでしょうか。
そもそもフロイトが無意識という概念に着目した理由は、神経症などの臨床にのぞむ中で、物忘れなどの失策行為や不可解な症状、奇妙な夢の背後には本人も気づいていない心の内的な働きがあるのではないか、と考えたからのようです。
そういった視点によって研究を行い出来上がったのが上記の意識、無意識、前意識の存在を仮定した理論で、これを「局所論」と言います。
局所論とは
心には意識、無意識、前意識という領域が存在し、それぞれを局所と呼んだことから、意識に関するフロイトの理論は局所論と呼ばれています。
フロイトの独自な点は、無意識は抽象的、また、動きのない静的なものではなく、心の中に湧き上がるものを意識に上らないように抑え込むような葛藤的な動き、心の力動であるとした点だと言われています。
なぜ意識化できないものがあるのかというと、単純に意識に上がってきてしまうと都合が悪いからです。
ある欲望や気持ちを自覚してしまうことで生じる苦痛を意識しないで済むように「抑圧」という防衛が働くように、抑え込む力と、抑え込まれているもののぶつかり合いをフロイトは力動的な葛藤と呼びました。
無意識について理論化された局所論ですが、これは実はフロイトの初期の理論です。
そのため、局所論では抑圧や意識化をともに無意識の領域が行っていることになり、理論的には微妙なところがあるといった不都合な点がありました。
そこで、その理論不足な点を補うために提唱されたのがエス、自我、超自我という領域を仮定した心的構造論と呼ばれるものです。